山口小夜子
服飾デザインを学ぶ傍ら、モデル活動を始める。1971年、山本寛斎のコレクションで世界進出、アジア人初のトップモデルに。演劇、映画、パフォーマンス、衣装デザインと活動の幅を広げ、アーティストとして無二の存在に。2007年に急逝。
ART
2022.09.22
©下村一喜(AGENCE HIRATA)
絵画に描かれた美しい人々、装い、ヘアメイクの中には現代を生きる私たちの美の感性を刺激するヒントがたくさんあります。
今回は伝説の日本人モデル・山口小夜子の魅力に迫ります。
服飾デザインを学ぶ傍ら、モデル活動を始める。1971年、山本寛斎のコレクションで世界進出、アジア人初のトップモデルに。演劇、映画、パフォーマンス、衣装デザインと活動の幅を広げ、アーティストとして無二の存在に。2007年に急逝。
おかっぱの黒髪、切れ長のアイメイクで日本女性の美を世界に知らしめ、トップモデルとして活躍した山口小夜子。1973年、三宅一生初となるパリ・コレクションに出演し、一世を風靡しました。これが世界のショーウィンドーを「小夜子マネキン」が飾るほどの人気のきっかけとなり、小夜子はイヴ・サンローランをはじめ、数多くのデザイナーのショーに起用されました。
©Alamy / Cynet Photo
実は小夜子は大きく丸い目の持ち主でした。しかし、切れ長の目を印象づける繊細なアイライン、くっきりとした赤い唇、白い肌、高い位置のチークをメイクアップアーティストとの共同作業の中で生み出したのです。前髪とアイラインでミステリアスなまなざしを作り上げ、世界中を虜にしました。
小夜子にとってモデルの仕事は、デザイナーが服に込めた意図を自身の身体で解釈するという、コラボレーション的なもの。着る行為の延長線上として、演劇や映画にも出演し、舞台作品の衣装デザインにまで活動の幅を広げました。中でもパフォーマンスには本格的に傾倒し、46歳でパリ・コレのランウェイに復帰した際に披露しました。
新しいものへの強い感受性を持ち、晩年にはDJとしての活動も始め、若いアーティストたちと積極的に共演するなど、急逝する直前まで輝き続けました。そのバイタリティこそが、彼女が内側から放つ美の理由ではないでしょうか。
©藤井秀樹
モードを美しく着こなすことに留まらず、“着ること”を通しての表現を追求した小夜子は、自身を「ウェアリスト」と呼びました。ヘアメイク、デザイナー、写真家との共同作業で美を生み出すことから、パフォーマー、クリエイターへと表現の領域を広げました。年齢を重ねるごとに新しい“美”をしなやかに取り入れる姿勢は、現代女性にも影響を与えています。
Text:森 菜穂美
協力:株式会社オフィスマイティー